DON'T BE COOLISH!!

訳すなら「カッコをつけるな!」ぐらいの意味で

映画から遠く離れて(本にかなり近づく)(20191218)

◎暗闇の中で言葉を弄すよりも、雑に書くことも(倫理に反しない範囲で)恐れずさっさと突き進んだほうがよさそうだ。ことに加算式に書いてゆく癖のあるぼくの場合は。

◎タイトルのとおりだが、11月ごろを境に映画を観る頻度がぐっと減ってきて、本の方により接近しつつある。要旨はそれだけだ。以下につづくのは余談である。

◎ひとつめの要素は執筆欲だ。……ああ、そうだ、たしかに馬鹿げているとも。ブログの更新ひとつままならない男が執筆欲を語るなどとは。創作物を完成させたのは過去、大学時代に、短編を一篇だけ、のやつがなにを言ってんだか、ですよ。

今しがた勇気を出してそれを読んでみたが、まあひどい。精神が参ってるのを丸出しにして喜んでる代物で、とうてい誇りに思える仕事ではない。“人にやたら弱みをさらけだすのは無礼者の所業だ”みたいなことを三島由紀夫が言ったそうだが、その短編はまさしく無礼の極みだった。あんなものを当時の友人G君に読ませてしまったことは今更ながら慙愧に耐えん。お詫びしたい。

◎一方で、ちょっとほっとした。「あー、今だったらもう少し、理性的になって創作に取り組めるかも」という。まあこれはご都合主義かもしれない。でも、ぼくという存在はだんだんマシになってきてる。うぬぼれじゃないぞ。クソマイナスのマイナスからただのゼロの方へ、半歩ずつぐらい向かってるだけの話なんだから。

◎まだ気恥ずかしいんで詳しいことについてはもったいぶっておくが、『これをしたい』という明確なものも固まり始めている。アイデアや人物や空間が、いろいろ頭を圧迫している。長年、これらを内なる妄想の域にとどめていたが、もはや満足できない。やりたい。

◎とはいえ、それを証するためには、書くことをやらなくてはいけない。『小説家になろう』は間違いで、実際には『小説を書こう』なのだ。

パーティに出ると(できることなら、なるべく顔を出さないようにしているのだが)、何やらいわくありげな笑顔を浮かべて握手を求めてくる人種がいる。彼らはこういうのだ。

「じつは、わたしはずっと作家になりたかったんですよ」

以前の私なら、つとめて丁重に受け答えをしたものだ。

だが近頃では、同じように満面に笑みを浮かべてこう答えることにしている。

「じつは、わたしはずっと脳外科医になりたかったんですよ」

(「紹介のことば」ジョン・D・マクドナルド, 高畑文夫訳:スティーヴン・キング「深夜勤務 ナイトシフト1」扶桑社ミステリー,p7)  

ナイトシフト〈1〉深夜勤務 (扶桑社ミステリー)

ナイトシフト〈1〉深夜勤務 (扶桑社ミステリー)

◎もうひとつは、大学時代以前と以後でできた溝を埋めたい気持ちが強くなったこと。人文学系の学部で、創作物の批評方法論(とりわけ一般に“表層批評”や“テマティズム批評”とよばれる類)にいろいろ触れ、ものの見方や評価軸が大きく変わったが、それ以前の嗜好……未成年の時分に好きだったものは、大半置いてきたままになっている。

無論、以前と同じようにそれらを受け取れないのは分かっている。映画だとそれをだいぶとそうしたことを自認できるようにもなった。さほど好きじゃなくなるのと同じくらい、新しく好きな作品や演出者もできた(それと、よくわからず好きだった作品のなにが好きだったのか、しゃべれるようになったこともうれしい)。でも本についてはほぼほったらかしだ。

◎大学時代には、文学批評や創作論の本とかはわりかし読んでいたつもりだが、かえってその対象になるものを読まなかったのが惜しまれる(大学での専攻が広義の映画学で、そっちのほうに手間をかけたかったのもたしかだが)。おかげですっかり中途半端な本の虫だ。小説に限らず、漫画でさえそうなのだからひどい話だよなと。いまでも新刊が出たらすかさず買うくらい好きな漫画家がいるが、ここ数年にわたりほとんどの作品を一読もしていないという。なんのつもりだ、それでファンのつもりか!?って。ちょっとね、それはどうにかして先に進みたいと焦りっぱなし。

◎そんな中で、一昨日カート・ヴォネガットの「国のない男」という、生年発表した最後のエッセイにあたる本を読んだ。ヴォネガットはぼくが高校生の頃に発見し、一も二もなく虜になった小説家だったが、例によってここ数年にわたりめっきり読まない状況が続いていた。しかし久々に読んでみると、往年のそうしたときめきがふと自分の体に戻ってきたようで、いささか興奮に駆られたまますぐに読み切ったのであった。なぜ彼を遠ざけていたのか。彼のテキストをもし突き詰めてみれば、ぼくの望むものにもなにか形を与えることができるかもしれないのに、なにを尻込みしていたのだろう。

◎大学時代から尾を引いてるのが、あるひとりの作家の創作物に浴びるほど触れる体験を忌避してしまうクセがついてしまったこと。もちろん、ほかの作家を次々見ていくことも大事だったが、それは学術上の必要からというのがあった。それを、もう下手に批評家ぶるのにうんざりしてきた今に至るまでズルズル続けることもないだろうし、一度溺れてみるというのもいいんじゃないかと考え始めている。

そんなこと言ってる暇あるならすぐに自分の横の本棚で溺れればいいだけの話なんだけど。

とっとと溺れちまえ。

◎ぼくの“ファンになりたい願望”を最近殊に掻き立ててくれるのは、所謂“モダンホラー”系の米大衆作家である。その嚆矢になるかと考え、先月になってスティーヴン・キング「書くことについて」、ディーン・クーンツ「ベストセラー小説の書き方」を続けて読んだ。プロットの事前構築をどれくらい重要視するか、プロタゴニストへの感情移入をどれくらい重要視するか等々、両作家では割と思想が違っており、それが楽しいところだが、ただ一つ共通する戒律がある。『読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくれ』。上に引いたジョン・D・マクドナルドも、そのあとの文で「ひたすら書け、他人の物もたくさん読め」と言っている。

そういう意味では、ぼくはスタートラインにも立つ資格がない状態なのだ。絶対的に数が足りない。だから、今からやることが大事になる。地道に、くじけず、かつ楽しんで、行けるところまで。

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レッツ・プレイ。