DON'T BE COOLISH!!

訳すなら「カッコをつけるな!」ぐらいの意味で

静止するように動く、あるいは大仰に動かない(20200418)

◎少しでも書く癖をつける、などと言っておきながら何てザマだろう…12月から一片も書いちゃいないじゃあないの。怒られさえしなきゃいいってんで息をつくように嘘をつきやがる。ほとほとひどい野郎だ。ねえあなた。

◎いやしかし、それどころではない。あまりにも、あまりにも、大きく情勢が変わってしまった。図書館も休館、映画館も休館(それ以上に、映画館が閉まっても思いのほか動揺が少ないような生活様式にここ数ヶ月でなってしまっていることが、映画好きの自認者のプライドにはちとこたえるけれども…)。アマゾンの速達も消えて久しい。マスクを手に入れられたことがせめてもの幸運だ。

◎だが、こんなときでも仕事だけは休みにならない。休みにできない性質の仕事だからだ(医師や運送業に比べては遥かにローリスクではあるが)。ぼくの仕事が休みになるときはおそらく会社が潰れるときだろう。まいった。

 

◎一度書くのにべらべら時間をかけてるといつまで経っても習慣化しないので、今日はこの辺で。やめやめ!

映画から遠く離れて(本にかなり近づく)(20191218)

◎暗闇の中で言葉を弄すよりも、雑に書くことも(倫理に反しない範囲で)恐れずさっさと突き進んだほうがよさそうだ。ことに加算式に書いてゆく癖のあるぼくの場合は。

◎タイトルのとおりだが、11月ごろを境に映画を観る頻度がぐっと減ってきて、本の方により接近しつつある。要旨はそれだけだ。以下につづくのは余談である。

◎ひとつめの要素は執筆欲だ。……ああ、そうだ、たしかに馬鹿げているとも。ブログの更新ひとつままならない男が執筆欲を語るなどとは。創作物を完成させたのは過去、大学時代に、短編を一篇だけ、のやつがなにを言ってんだか、ですよ。

今しがた勇気を出してそれを読んでみたが、まあひどい。精神が参ってるのを丸出しにして喜んでる代物で、とうてい誇りに思える仕事ではない。“人にやたら弱みをさらけだすのは無礼者の所業だ”みたいなことを三島由紀夫が言ったそうだが、その短編はまさしく無礼の極みだった。あんなものを当時の友人G君に読ませてしまったことは今更ながら慙愧に耐えん。お詫びしたい。

◎一方で、ちょっとほっとした。「あー、今だったらもう少し、理性的になって創作に取り組めるかも」という。まあこれはご都合主義かもしれない。でも、ぼくという存在はだんだんマシになってきてる。うぬぼれじゃないぞ。クソマイナスのマイナスからただのゼロの方へ、半歩ずつぐらい向かってるだけの話なんだから。

◎まだ気恥ずかしいんで詳しいことについてはもったいぶっておくが、『これをしたい』という明確なものも固まり始めている。アイデアや人物や空間が、いろいろ頭を圧迫している。長年、これらを内なる妄想の域にとどめていたが、もはや満足できない。やりたい。

◎とはいえ、それを証するためには、書くことをやらなくてはいけない。『小説家になろう』は間違いで、実際には『小説を書こう』なのだ。

パーティに出ると(できることなら、なるべく顔を出さないようにしているのだが)、何やらいわくありげな笑顔を浮かべて握手を求めてくる人種がいる。彼らはこういうのだ。

「じつは、わたしはずっと作家になりたかったんですよ」

以前の私なら、つとめて丁重に受け答えをしたものだ。

だが近頃では、同じように満面に笑みを浮かべてこう答えることにしている。

「じつは、わたしはずっと脳外科医になりたかったんですよ」

(「紹介のことば」ジョン・D・マクドナルド, 高畑文夫訳:スティーヴン・キング「深夜勤務 ナイトシフト1」扶桑社ミステリー,p7)  

ナイトシフト〈1〉深夜勤務 (扶桑社ミステリー)

ナイトシフト〈1〉深夜勤務 (扶桑社ミステリー)

◎もうひとつは、大学時代以前と以後でできた溝を埋めたい気持ちが強くなったこと。人文学系の学部で、創作物の批評方法論(とりわけ一般に“表層批評”や“テマティズム批評”とよばれる類)にいろいろ触れ、ものの見方や評価軸が大きく変わったが、それ以前の嗜好……未成年の時分に好きだったものは、大半置いてきたままになっている。

無論、以前と同じようにそれらを受け取れないのは分かっている。映画だとそれをだいぶとそうしたことを自認できるようにもなった。さほど好きじゃなくなるのと同じくらい、新しく好きな作品や演出者もできた(それと、よくわからず好きだった作品のなにが好きだったのか、しゃべれるようになったこともうれしい)。でも本についてはほぼほったらかしだ。

◎大学時代には、文学批評や創作論の本とかはわりかし読んでいたつもりだが、かえってその対象になるものを読まなかったのが惜しまれる(大学での専攻が広義の映画学で、そっちのほうに手間をかけたかったのもたしかだが)。おかげですっかり中途半端な本の虫だ。小説に限らず、漫画でさえそうなのだからひどい話だよなと。いまでも新刊が出たらすかさず買うくらい好きな漫画家がいるが、ここ数年にわたりほとんどの作品を一読もしていないという。なんのつもりだ、それでファンのつもりか!?って。ちょっとね、それはどうにかして先に進みたいと焦りっぱなし。

◎そんな中で、一昨日カート・ヴォネガットの「国のない男」という、生年発表した最後のエッセイにあたる本を読んだ。ヴォネガットはぼくが高校生の頃に発見し、一も二もなく虜になった小説家だったが、例によってここ数年にわたりめっきり読まない状況が続いていた。しかし久々に読んでみると、往年のそうしたときめきがふと自分の体に戻ってきたようで、いささか興奮に駆られたまますぐに読み切ったのであった。なぜ彼を遠ざけていたのか。彼のテキストをもし突き詰めてみれば、ぼくの望むものにもなにか形を与えることができるかもしれないのに、なにを尻込みしていたのだろう。

◎大学時代から尾を引いてるのが、あるひとりの作家の創作物に浴びるほど触れる体験を忌避してしまうクセがついてしまったこと。もちろん、ほかの作家を次々見ていくことも大事だったが、それは学術上の必要からというのがあった。それを、もう下手に批評家ぶるのにうんざりしてきた今に至るまでズルズル続けることもないだろうし、一度溺れてみるというのもいいんじゃないかと考え始めている。

そんなこと言ってる暇あるならすぐに自分の横の本棚で溺れればいいだけの話なんだけど。

とっとと溺れちまえ。

◎ぼくの“ファンになりたい願望”を最近殊に掻き立ててくれるのは、所謂“モダンホラー”系の米大衆作家である。その嚆矢になるかと考え、先月になってスティーヴン・キング「書くことについて」、ディーン・クーンツ「ベストセラー小説の書き方」を続けて読んだ。プロットの事前構築をどれくらい重要視するか、プロタゴニストへの感情移入をどれくらい重要視するか等々、両作家では割と思想が違っており、それが楽しいところだが、ただ一つ共通する戒律がある。『読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくれ』。上に引いたジョン・D・マクドナルドも、そのあとの文で「ひたすら書け、他人の物もたくさん読め」と言っている。

そういう意味では、ぼくはスタートラインにも立つ資格がない状態なのだ。絶対的に数が足りない。だから、今からやることが大事になる。地道に、くじけず、かつ楽しんで、行けるところまで。

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レッツ・プレイ。

「映画監督は映画で返答する」:たとえば、タランティーノとかだと(2019/07/06)

◎先週日曜に、地上波にて新海誠君の名は。」が放映されたらしい。それをきっかけに、本作品の女性表象に対するフェミニズム的批判、あるいは嫌悪の表明(ついでにフェミニズム的見地以外からも新海誠作品や新海自身を「キモイ」とする発言)があり、それに対する反駁、あるいは批判の見地自体の否定があり、早い話が“祭り”になった、らしい……ぼくはその晩お仕事があったんで、後からツイッターでその一部を知ったにすぎない。

ぼくが「君の名は。」をどう思うかは別に今回の主眼ではないけど、あえて言うなら、興味深い表象を含んでいることも認識したうえで、ただぼくが映画で観たい“得体の知れなさ”には少し欠ける作品のように思っている。フェミニスト的立場からの批判も、少なくともおっぱいもみもみやパンチラ、口噛み酒の宣伝イメージという、記号的なセクシャルさについてはまあ妥当だろう(ちなみにぼく、新海誠は「秒速5センチメートル」と「言の葉の庭」がお気に入り、です)。

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……うん、まあ……

ただ、ぼくがやはり気になってしまうのは、一部の人による、こんな気持ち悪いものを一側面でも評価してしまう者はもれなくセクシストだ、とか、こんなものが興行収入歴代2位になる国家とそこに属する民族は異常な倫理観の巣窟だ、とする向きだ。こうした怒りの感情の背景になる女性の苦しみには、ぼくも自分なりに同意するつもりだけど、そうはいっても、ああいった形の意見に表出される怒りを鎮めうるものは、その作品を完全になかったことにしてしまうこと、封殺してしまうこと、記憶破壊刑に処してしまうことでしかないのではないか、という憂慮がぼくをそわそわさせるのである。

それはまずいだろ、というより、そんなことできるわけないじゃん、ってなる。

ひとつの価値観(倫理観もまた「ひとつ」に過ぎない)からしてまずい作品でも、別の価値観から優れていたり価値があったりなんてのはざらだし、たとえ一見すべてがまずい作品としても、それを拾って愛でてしまう価値観(所謂クソ映画愛好)がひょいと出てきたりする。もちろんこれらの中の優先順位はある。しかし優先度が下の価値観も価値観としては不滅なわけである。なくなったりはしない。絶対にしない。それらは考慮されてはならない、見て見ぬふりをせねばならないという前提は、いまのぼくには肯定できない。うまくいくわけがないし、それを無理矢理やろうとしたら、もっとたくさんの人が傷つくことになる。それが避けるべきでない犠牲であると言われたら、もはやぼくには答えようがない。

 

◎さて、ここで唐突に三人の映画作家に登場してもらおう。D・W・グリフィスジョン・フォードクエンティン・タランティーノ

最初の二名は、間違いなく世界最高の映画作家の域に入る監督だ。多くの人に影響を与え、模倣される「映画的な要素」を創出した作家だ。いっぽうで、この二人は映画を通して、結果的に社会を間違った方向に動かしてしまったことがある。グリフィスは「國民の創生」という映画で、人種差別主義に基づく実在の集団をヒーローとして描いたことで、その上それを興行的に成功させたことで、弱体化していたその集団を再び活気づかせてしまった。フォードは“時代劇”というジャンルにおいて決定的な貢献をしたが、その中でマイノリティたるインディアンに対して誤解や偏見を与えるような固定イメージを、少なくない作品群を通じて与えてきた。

最後の一名は、世界最高の映画作家かといわれるとちょっと首をかしげるが、少なくともぼくにとってはとても気のかかる、親しみを帯びた監督だ。ファンも多いが、暴力的なものばかり撮るので、それと同じくらい嫌われてもいる。彼はグリフィスが「國民の創生」を世に放ったことを憎んだ。フォードが「捜索者」やその他の作品でインディアンを不当に扱ったことを憎んだ。それらが黒人やインディアンの居場所をなくすように、社会に働きかけたから。

だけどタランティーノは賢明にも、これらの作品が決してなかったことにはならないことを知っていた。最悪の駄作すら直ちに消滅しえないのだから、なまじ出来がいい作品などなおさら消滅しない。悪名高い上にフィルムの保存観が最悪の時代に作られたはずの「國民の創生」はいまでも高画質のソフトを購入して鑑賞できる。間違いなく豊かで、美しく、面白い作品だからだ。「捜索者」もまたしかり。それを無視して(たとえばラース・フォン・トリアーみたいに)彼らの影響をも含んだ映画的要素を“けがれた表現”としてひたすら否定する撮り方をすることもできたが、タランティーノはそうはしなかった。

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「捜索者」の扉枠はシネフィルのいう“映画的記憶”の中でも最も顕著に模倣されたもののひとつだ。その中に映る男はレイシストで、幼いころにインディアンに攫われ、インディアンそのものとして育った自分の姪を認められず、殺そうとまでする。ただいろいろあって、姪を殺さずに、彼女の家に取り戻した。姪を歓迎する家族たち。しかしジョン・ウェインは彼らに話しかけられるのを待たず、踵を返して遠ざかる。扉の向こうから彼を捉えるカメラの視線は、本来存在しえない視線であり、それはいろいろな想像の余地を与えるだろう。家族から必要とされないから去ってゆくとも、あえて自分から離れてゆくとも。

タランティーノはこの要素を「イングロリアス・バスターズ」で用いた。手前の男はナチスの軍人で、この映る家に匿われていたユダヤ人を皆殺しにしたばかりだ。奥の人影はそこからただ一人逃れ出た少女である。ここでの構図は「捜索者」のようにあいまいではなく、明らかに加害者と彼の視点からの被害者を捉える。想像の余地に乏しい。これはある面では豊かさの喪失だ。しかしタランティーノの戦略においては、「加害と被害」の構図は強い力となる。

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キル・ビル Vol.2」における扉枠である。一人の女が、恋人を殺し自分の人生を歪めた敵の一人を再起不能にして、その敵の居城から去ってゆく様子だ。敵は死に切っておらず、狂い叫びのたうつが彼女は顧みない。やがて荒野に吹く風が扉をばたりと閉めてしまう。「キル・ビル」は復讐劇だ。つまり、加害と被害を、被害と加害によって清算する劇だ。ここには、清算された加害と被害が見事に収められている(ちなみに、ここでの敵は完全に視力を奪われており、この構図もまた存在しえない構図だ)。「イングロリアス・バスターズ」も復讐劇だ。どういうことか。逃げてゆく少女は、次の場面から復讐者になるのだ。

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先ほど「キル・ビル」で示された加害・被害の清算は、たとえばこういうショットを前提としている。恋人を殺し、女を瀕死状態にした男女がそれを見下ろす。むろん、設定ショットで同じ空間にいることは規定されない。ここにははっきりと被害・加害の構図が生まれる。こんな構図を、タランティーノの作品ではたくさん見つけることができる。デビュー作「レザボア・ドッグス」で、車のトランクに押し込めた警官をギャングたちが見下ろす構図を思い出してみてほしい。

暴力映画は必然の成り行きとして力の差を描く。タランティーノもまたそれを描く。高低差や、切り返しを用いてそれを描く。

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「國民の創生」では、戦火に逃げ惑う人々、力に脅かされる弱者たちが決まって高所に逃げる。高所に隠れる。これが決定的な破滅をもたらす様子も描かれる。追ってくる黒人を恐れた白人の娘は、崖の上まで登って逃げてゆき、ついには崖から身を投げてしまう。タランティーノの戦略はグリフィスが通った道でもあった。

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ジャンゴ 繋がれざる者」は、明白な「國民の創生」に対するアンチテーゼとして作られた。これは高低差のテーマにおいても同様であり、「國民」で被害者の逃げ場だった高所は、「ジャンゴ」では加害者の立つ舞台となる。奴隷の身を脱し、射撃の腕を磨き、奴隷として売られた恋人を奪還せんとする男が高所に立てば、遮る者は誰もなく、ただ男自身の意思のみがそれを遮りうる。この場面では、男は狙う賞金首が子持ちなので最初躊躇するが、相棒が賞金首の兇状を男に読ませ、撃つべき存在であることを納得させてから、改めて賞金首を撃っている。こうした構図は、「ジャンゴ」のその後の場面でもふんだんに見ることができる。

◎インタビューなどで触れる限り、タランティーノの、グリフィスやフォードが許せない気持ちは単なる挑戦的な態度でなくまことのものだろう。黒人やインディアンの境遇が少しでもマシになると分かる以上、もしそれが選べるのなら、彼はきっと「國民の創生」も「捜索者」もない世界のほうを選ぶであろう。しかし、端からそんな選択肢はないのだ。では、「國民の創生」や「捜索者」がある世界でどう先人の過ちを乗り越えるのか?

タランティーノは、差別者を温存させもした作品の表象をふたたび引用して、自らはそれによって被差別者を描こうとした。加害と被害の構図を反転させ、清算を試みてみせた。もちろん、やり返しの暴力としては同じではないのかと言うこともできる。ただ、それを対話とは、問いに対する答えとは捉えられないだろうか。「國民の創生」も「捜索者」も、彼の映画の登場をもって廃棄されることはない。存在し続ける。ともすれば名作と呼ばれながら。その流れの中で、「イングロリアス」も「ジャンゴ」も存在し続ける。その流れは、ただ単により正しくあるだけでなく、より豊かに、より興味深くなってゆくのではないのだろうか。

これが映画という表現媒体の本質的な力、なのか?というところでは疑問を呈する余地はあるかもしれないけど、少なくともそういう形での“返答”が、映画史においてはよくあるというのは知っている。なにも倫理的な問題にかかわることだけではない。たとえばハワード・ホークスはジンネマンの「真昼の決闘」の世評に怒り、自分の決定版保安官を描こうと「リオ・ブラボー」を撮ったらしいし。これは違う!俺にとっては、これはこうだ!───というパトスはやっぱり大事だよ。たぶん。

◎つまり、こうした側面に関して、「君の名は。」を乗り越えようとする作品がでてくるかもしれない、ということを期待したっていいだろう?というのを言いたかった。えらく長ったらしくなったが。ティアマト彗星が女性のある種の苦しみを引き受けてくれるバージョンが、どこかで生まれ出るのかもよ。もし待ちきれないのなら、あなたがそれを作るというのも、全然アリだ!

◎余談1。表題の「映画監督は映画で返答する」とは、ぼくのもう一人気がかりな映画監督、豊田利晃による発言である。彼のここ数か月における(巻き込まれなければよかった)どた騒ぎには本当に同情するし、公開が宙に浮いたドキュメンタリー「PLANETIST」や、“返答”にあたる短編映画「狼煙が呼ぶ」も含め、彼と彼の作品の前途の洋々たるを願いたい。ぼくもそのうちどっかで観れるといいな。

◎余談2。本稿でのタランティーノとグリフィス、フォードの作品についてのアイデアは、言ってしまうとぼくが大学で書いた卒論の一部から引いたものでした。アイデアがあったので、こういうながったるいものになってしまいました。粗末な論旨なのでもとよりそんな期待はないでしょうけど、今後このくらいのながったるさで書くことを期待されても正直困るのでした。どっとはらい

見る欲望に火はつくか?(2019/06/24)

◎リビングのテレビと、寝室兼書斎の卓上にあるPCのモニターは向かい合っている。基本的にPCで何かをしてる時は、テレビは音しか聞こえてこない。

そうした位置関係上、テレビを観る時はPCのもとを去り、観終わるとPCへと帰ってくるという往還の関係がアパートの中で息づいているのだ。

◎たまさか中盤からつけたザ・シネマの「未知との遭遇」から戻ってこれず、結局最後まで観る羽目に陥る。心底この映画に免疫がない。昔のように感情と涙腺が直結していたならば、間違いなく泣いている。

一度それを見てしまったら、それまでそれを見ていなかった自分は跡形もなく消え去り、ただそれを見た自分を生きるよりほかにないという、その掟が人物を“未知を追う”運動に駆り立てるさまが心地よい。クライマックスはただ端的にその「見る」ことの共有で、研究者も闖入者も関係なく、居合わせた人々で一緒に見るっていう。そんな作品を、映画館で不特定多数と寄り集まって観たりなんかしたら……と思うと、その人たちが羨ましくてしょうがない。……えっ、今年で最後の「午前十時の映画祭」でやってた??……どうしてその時観に行かなかったのさ!ぼくのグズ!ノロマ!

◎数日前から、Youtubeで海外の所謂ビデオエッセイというのを摘まんで、自分の映画消費欲に発破をかけている。そのきっかけにしてぼくのお気に入りは、某氏のツイートで紹介されたEvery Frame a Paintingというチャンネル。3年ほど前に更新停止となったようでたいへん残念ではあるが、いろいろ見てみたチャンネルの中ではいちばん、ぼくの好きな演出論や細部へのいざないという要素が強いように思う。とはいいつつ、一番このシリーズを漁ってて驚いたのは、事実上の映画音楽の使い回し(その元の音楽を臨時的なイメージ曲として制作時に設定しているゆえによく起こることらしい)がハリウッドで横行しているという話だった。

www.youtube.com

うーむ、ぼくはMCUのよき観客ではないにしろ、たしかにMCU作品群の音楽はあまり強い印象を受けないように思う。かの「BTTF」「デルタフォース」の才人シルベストリによる「アベンジャーズ」のテーマでさえ“テーテーテテー”の部分しか覚えてなくて、前後の旋律がなんとも。

はしがきと備考

インターネット上でひとまずペルメタルパワ・ベラーミクと名乗る(が、みなさんは「ベラ」でよい。)ぼくは、昨年10月ごろ、ブログを開設した───そのブログで書くにあたっての3つのルールを同時に定めて。詳細はリンク先のただ一件だけのエントリーを読んでくれるとよいので多くは語らない。

んで。結論から言うと、ブログは放置された。理由は2つ。1つは端的に忘れていたこと。もう1つはこのルールを順守してものを書ける自信が実は最初からなかったというのに気付いたこと。つまり守れない約束をしたままフリーズしてしまったというわけで、まあーずいぶんバカな話だ。

先のブログの「硬性憲法」は現在も有効であり、それを消したり無視したりしてなかったことにするのはぼくの道義心に反する。したがって、先のブログで宣言したとおり、このべつのブログを作成したというわけだ。

このブログについて、特にルールは定めない。まあ───Twitterと同じことを、長い文章バージョンでやってみようと思った、ってのが開設の動機なので、そういうふうに使うことになると思われる。あえてあるとするなら、それは当ブログの題のごとし、だ。カッコをつけず、なんとなくでもいいから書く。完成度より、習慣づけ。それが狙い。

なお先のブログについてはしばらくの間放置し続ける。なぜって、せっかく作ったものは意味がなくとも置いておきたがる性格なんですよぼくは。消そうと思ったら消しますぐらいで、よろしく。

まだ長く書きたいとぼくの内面がほざいてるけど、明日は早いから寝ます。