DON'T BE COOLISH!!

訳すなら「カッコをつけるな!」ぐらいの意味で

「映画監督は映画で返答する」:たとえば、タランティーノとかだと(2019/07/06)

◎先週日曜に、地上波にて新海誠君の名は。」が放映されたらしい。それをきっかけに、本作品の女性表象に対するフェミニズム的批判、あるいは嫌悪の表明(ついでにフェミニズム的見地以外からも新海誠作品や新海自身を「キモイ」とする発言)があり、それに対する反駁、あるいは批判の見地自体の否定があり、早い話が“祭り”になった、らしい……ぼくはその晩お仕事があったんで、後からツイッターでその一部を知ったにすぎない。

ぼくが「君の名は。」をどう思うかは別に今回の主眼ではないけど、あえて言うなら、興味深い表象を含んでいることも認識したうえで、ただぼくが映画で観たい“得体の知れなさ”には少し欠ける作品のように思っている。フェミニスト的立場からの批判も、少なくともおっぱいもみもみやパンチラ、口噛み酒の宣伝イメージという、記号的なセクシャルさについてはまあ妥当だろう(ちなみにぼく、新海誠は「秒速5センチメートル」と「言の葉の庭」がお気に入り、です)。

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……うん、まあ……

ただ、ぼくがやはり気になってしまうのは、一部の人による、こんな気持ち悪いものを一側面でも評価してしまう者はもれなくセクシストだ、とか、こんなものが興行収入歴代2位になる国家とそこに属する民族は異常な倫理観の巣窟だ、とする向きだ。こうした怒りの感情の背景になる女性の苦しみには、ぼくも自分なりに同意するつもりだけど、そうはいっても、ああいった形の意見に表出される怒りを鎮めうるものは、その作品を完全になかったことにしてしまうこと、封殺してしまうこと、記憶破壊刑に処してしまうことでしかないのではないか、という憂慮がぼくをそわそわさせるのである。

それはまずいだろ、というより、そんなことできるわけないじゃん、ってなる。

ひとつの価値観(倫理観もまた「ひとつ」に過ぎない)からしてまずい作品でも、別の価値観から優れていたり価値があったりなんてのはざらだし、たとえ一見すべてがまずい作品としても、それを拾って愛でてしまう価値観(所謂クソ映画愛好)がひょいと出てきたりする。もちろんこれらの中の優先順位はある。しかし優先度が下の価値観も価値観としては不滅なわけである。なくなったりはしない。絶対にしない。それらは考慮されてはならない、見て見ぬふりをせねばならないという前提は、いまのぼくには肯定できない。うまくいくわけがないし、それを無理矢理やろうとしたら、もっとたくさんの人が傷つくことになる。それが避けるべきでない犠牲であると言われたら、もはやぼくには答えようがない。

 

◎さて、ここで唐突に三人の映画作家に登場してもらおう。D・W・グリフィスジョン・フォードクエンティン・タランティーノ

最初の二名は、間違いなく世界最高の映画作家の域に入る監督だ。多くの人に影響を与え、模倣される「映画的な要素」を創出した作家だ。いっぽうで、この二人は映画を通して、結果的に社会を間違った方向に動かしてしまったことがある。グリフィスは「國民の創生」という映画で、人種差別主義に基づく実在の集団をヒーローとして描いたことで、その上それを興行的に成功させたことで、弱体化していたその集団を再び活気づかせてしまった。フォードは“時代劇”というジャンルにおいて決定的な貢献をしたが、その中でマイノリティたるインディアンに対して誤解や偏見を与えるような固定イメージを、少なくない作品群を通じて与えてきた。

最後の一名は、世界最高の映画作家かといわれるとちょっと首をかしげるが、少なくともぼくにとってはとても気のかかる、親しみを帯びた監督だ。ファンも多いが、暴力的なものばかり撮るので、それと同じくらい嫌われてもいる。彼はグリフィスが「國民の創生」を世に放ったことを憎んだ。フォードが「捜索者」やその他の作品でインディアンを不当に扱ったことを憎んだ。それらが黒人やインディアンの居場所をなくすように、社会に働きかけたから。

だけどタランティーノは賢明にも、これらの作品が決してなかったことにはならないことを知っていた。最悪の駄作すら直ちに消滅しえないのだから、なまじ出来がいい作品などなおさら消滅しない。悪名高い上にフィルムの保存観が最悪の時代に作られたはずの「國民の創生」はいまでも高画質のソフトを購入して鑑賞できる。間違いなく豊かで、美しく、面白い作品だからだ。「捜索者」もまたしかり。それを無視して(たとえばラース・フォン・トリアーみたいに)彼らの影響をも含んだ映画的要素を“けがれた表現”としてひたすら否定する撮り方をすることもできたが、タランティーノはそうはしなかった。

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「捜索者」の扉枠はシネフィルのいう“映画的記憶”の中でも最も顕著に模倣されたもののひとつだ。その中に映る男はレイシストで、幼いころにインディアンに攫われ、インディアンそのものとして育った自分の姪を認められず、殺そうとまでする。ただいろいろあって、姪を殺さずに、彼女の家に取り戻した。姪を歓迎する家族たち。しかしジョン・ウェインは彼らに話しかけられるのを待たず、踵を返して遠ざかる。扉の向こうから彼を捉えるカメラの視線は、本来存在しえない視線であり、それはいろいろな想像の余地を与えるだろう。家族から必要とされないから去ってゆくとも、あえて自分から離れてゆくとも。

タランティーノはこの要素を「イングロリアス・バスターズ」で用いた。手前の男はナチスの軍人で、この映る家に匿われていたユダヤ人を皆殺しにしたばかりだ。奥の人影はそこからただ一人逃れ出た少女である。ここでの構図は「捜索者」のようにあいまいではなく、明らかに加害者と彼の視点からの被害者を捉える。想像の余地に乏しい。これはある面では豊かさの喪失だ。しかしタランティーノの戦略においては、「加害と被害」の構図は強い力となる。

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キル・ビル Vol.2」における扉枠である。一人の女が、恋人を殺し自分の人生を歪めた敵の一人を再起不能にして、その敵の居城から去ってゆく様子だ。敵は死に切っておらず、狂い叫びのたうつが彼女は顧みない。やがて荒野に吹く風が扉をばたりと閉めてしまう。「キル・ビル」は復讐劇だ。つまり、加害と被害を、被害と加害によって清算する劇だ。ここには、清算された加害と被害が見事に収められている(ちなみに、ここでの敵は完全に視力を奪われており、この構図もまた存在しえない構図だ)。「イングロリアス・バスターズ」も復讐劇だ。どういうことか。逃げてゆく少女は、次の場面から復讐者になるのだ。

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先ほど「キル・ビル」で示された加害・被害の清算は、たとえばこういうショットを前提としている。恋人を殺し、女を瀕死状態にした男女がそれを見下ろす。むろん、設定ショットで同じ空間にいることは規定されない。ここにははっきりと被害・加害の構図が生まれる。こんな構図を、タランティーノの作品ではたくさん見つけることができる。デビュー作「レザボア・ドッグス」で、車のトランクに押し込めた警官をギャングたちが見下ろす構図を思い出してみてほしい。

暴力映画は必然の成り行きとして力の差を描く。タランティーノもまたそれを描く。高低差や、切り返しを用いてそれを描く。

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「國民の創生」では、戦火に逃げ惑う人々、力に脅かされる弱者たちが決まって高所に逃げる。高所に隠れる。これが決定的な破滅をもたらす様子も描かれる。追ってくる黒人を恐れた白人の娘は、崖の上まで登って逃げてゆき、ついには崖から身を投げてしまう。タランティーノの戦略はグリフィスが通った道でもあった。

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ジャンゴ 繋がれざる者」は、明白な「國民の創生」に対するアンチテーゼとして作られた。これは高低差のテーマにおいても同様であり、「國民」で被害者の逃げ場だった高所は、「ジャンゴ」では加害者の立つ舞台となる。奴隷の身を脱し、射撃の腕を磨き、奴隷として売られた恋人を奪還せんとする男が高所に立てば、遮る者は誰もなく、ただ男自身の意思のみがそれを遮りうる。この場面では、男は狙う賞金首が子持ちなので最初躊躇するが、相棒が賞金首の兇状を男に読ませ、撃つべき存在であることを納得させてから、改めて賞金首を撃っている。こうした構図は、「ジャンゴ」のその後の場面でもふんだんに見ることができる。

◎インタビューなどで触れる限り、タランティーノの、グリフィスやフォードが許せない気持ちは単なる挑戦的な態度でなくまことのものだろう。黒人やインディアンの境遇が少しでもマシになると分かる以上、もしそれが選べるのなら、彼はきっと「國民の創生」も「捜索者」もない世界のほうを選ぶであろう。しかし、端からそんな選択肢はないのだ。では、「國民の創生」や「捜索者」がある世界でどう先人の過ちを乗り越えるのか?

タランティーノは、差別者を温存させもした作品の表象をふたたび引用して、自らはそれによって被差別者を描こうとした。加害と被害の構図を反転させ、清算を試みてみせた。もちろん、やり返しの暴力としては同じではないのかと言うこともできる。ただ、それを対話とは、問いに対する答えとは捉えられないだろうか。「國民の創生」も「捜索者」も、彼の映画の登場をもって廃棄されることはない。存在し続ける。ともすれば名作と呼ばれながら。その流れの中で、「イングロリアス」も「ジャンゴ」も存在し続ける。その流れは、ただ単により正しくあるだけでなく、より豊かに、より興味深くなってゆくのではないのだろうか。

これが映画という表現媒体の本質的な力、なのか?というところでは疑問を呈する余地はあるかもしれないけど、少なくともそういう形での“返答”が、映画史においてはよくあるというのは知っている。なにも倫理的な問題にかかわることだけではない。たとえばハワード・ホークスはジンネマンの「真昼の決闘」の世評に怒り、自分の決定版保安官を描こうと「リオ・ブラボー」を撮ったらしいし。これは違う!俺にとっては、これはこうだ!───というパトスはやっぱり大事だよ。たぶん。

◎つまり、こうした側面に関して、「君の名は。」を乗り越えようとする作品がでてくるかもしれない、ということを期待したっていいだろう?というのを言いたかった。えらく長ったらしくなったが。ティアマト彗星が女性のある種の苦しみを引き受けてくれるバージョンが、どこかで生まれ出るのかもよ。もし待ちきれないのなら、あなたがそれを作るというのも、全然アリだ!

◎余談1。表題の「映画監督は映画で返答する」とは、ぼくのもう一人気がかりな映画監督、豊田利晃による発言である。彼のここ数か月における(巻き込まれなければよかった)どた騒ぎには本当に同情するし、公開が宙に浮いたドキュメンタリー「PLANETIST」や、“返答”にあたる短編映画「狼煙が呼ぶ」も含め、彼と彼の作品の前途の洋々たるを願いたい。ぼくもそのうちどっかで観れるといいな。

◎余談2。本稿でのタランティーノとグリフィス、フォードの作品についてのアイデアは、言ってしまうとぼくが大学で書いた卒論の一部から引いたものでした。アイデアがあったので、こういうながったるいものになってしまいました。粗末な論旨なのでもとよりそんな期待はないでしょうけど、今後このくらいのながったるさで書くことを期待されても正直困るのでした。どっとはらい